1970年以前
祖父の代では、りんごを主力作物にした水稲&果樹農家でした。
また、祖父は冬場の仕事として「炭焼き」職人として秋から冬場は山にこもり、炭を焼いては、それを販売し生計を立てていたそうです。
また、祖父は地域のりんご農家と手を組み、組合を設置。
近所にりんご出荷のハブ施設も建て地域のりんご産業をけん引しました。
祖父が主戦を張っていた頃はトラクターなどの機械はなく、畑を馬や牛で耕起し、ほとんど人力での作業でした。
うちでも馬や牛を飼っていて、家のリビングの扉を開けるとすぐに馬屋という家の作りでした。
祖父は馬にはとても愛着があり、今でも馬の肉は食べません。
今とは考えられないほどに作業効率は低く、体力的にも苦労したようです。
祖父はよく言います、
「お前らは楽しすぎだ」
自分ではそんなつもりはないものの、当時の祖父らの時代の農業は過酷なものだったと推測できます。
農地、農業スキル等、先人たちの努力により、こうして今の私に継承されていることに本当に感謝です。
1970年代始め
我が田子町でもにんにくの栽培が始まりました。
この頃のにんにくは本当に高値で取引されていたそうです。
そこで祖父もいち早くにんにくの種を入手し、にんにく栽培ってどんな感じぞやと、リンゴ畑の隅ににんにくを植え始めました。
まさに「種子にんにく農園」の種が撒かれた時です。
この頃、リンゴの値も天井知らず。
りんごは高値で飛ぶように売れたそうです。
それもあって、にんにく自体にはさほど重きをおかれず、本当にわずかな面積で栽培されておりました。
そして、この頃からオイルショック等グローバルな事象に、日本の経済は元より、
日本の農業もグローバルな視点からの考察の必要性が増していったものと思われますが
この時期を境に、生産性を重視し農業の合理化は進み、現代農家の淘汰の波が押し寄せます。
この年代以降、日本の農家にとって苦しい時代が訪れます。
父の世代はこの時期の苦しいタイミングを過ごしました。
1980年前後 父が営農大学校を卒業し就農。
またその頃、我が田子町は「田子にんにく」のブランディングに着手。
父が就農した頃もりんごを中心とした営農形態をとっておりましたが、
同時に畑作も少しずつ導入されていきました。
80年代には全国的なりんごの供給過多に陥り、リンゴの値は暴落。
田子町は太平洋から冷たい風が吹き込むことによる「やませ」などの影響から高品質・高収量のリンゴを生み出すには不利な状況もあり、
うちとしてもりんごを辞めるという決断に至ります。
果樹農家を歩んできた祖父も名残惜しい気持ちも持ちながらも、営農方針の転換を泣く泣く決断したそうです。
父はそれ以降にんにくも含めた畑作に力を入れます。
主作物をトマトに切り替え、第二の作物ににんにくをおき、トマトの路地栽培に力をいれました。
話は前後しますが、70年後半にはにんにくの値崩れもおきました。
田子町でもにんにく栽培に力を入れ始めたおりの出来ごとに、
町・JA・東京大田市場とタッグを組み、高品質にんにくによるブランディングを進めます。
その甲斐あって、当時「東洋一の青果市場」と言われた大田市場でも、人口一万人に満たない田子のにんにくがその地位を確立していきます。
その手法は他の作物にも応用されます。
田子町では高品質・高付加価値の作物が出荷され、トマトや枝豆、きゅうりなどどの分野の作物でも全国トップレベルの評価を得ておりました。
私の父もトマトを主軸にしながらも、このあたりからにんにくの栽培に力を入れ始めました。
※画像のトラクターは父が就農した際、祖父にせがんで買ってもらった我が家初のトラクターです。
2駆で馬力も小さいながらも力強く我が家の農業を支えてくれました。
この頃から我が家でも営農上の経営課題の壁に直面します。
それは1970年代の項でも触れましたが、産地間競争激化の一途はおさまらず、より合理化と高付加価値競争が始まりました。
この頃の日本の青果の市場は、米価は全く振るわず、青果に関しては数年おきの産地移動に伴う価格の乱高下、農家の心情・経営状況ともに不安感しかない時代だったのではないかと思います。
そういった状況もあり、各地の農家は生き残りをかけ、各人各様の合理化を進め、大規模化や高付加価値化を追い求めます。
そんな中でも田子のにんにくの地位は揺るぎなく価格の安定はあったものの、地域間競争の荒波にもまれ、高付加価値競争の流れの中で「田子にんにく」にかける経費は増大する一方で、田子のにんにく生産者も疲弊していきました。
この頃から経営体力のない生産者はどんどんふるいにかけられていきます。
このころから更ににんにく農家としての経営はひっ迫していきます。
うちとしても、にんにく・トマト・枝豆とこの三本を柱に、いろんな作物を栽培しながら複合農業によるリスクヘッジに努めます。
我が家でも各作物においても安定性はなく、相場に左右される営農形態ではもはや将来を見通すことができなくなりつつありました。
それでも尚、田子でにんにくを作るということに誇りをもち、そこにすがる気持ちでにんにくを作り続けます。
町としても企業の誘致・第三セクター設置によるテコ入れ等、にんにくに特化した施策をどんどん打ち込みつづけました。
とは言え、農業生産者にとって非常に苦しい時代は続きます。
この頃、私は大学を卒業し資格浪人の分際でした。
親のすねをかじり、「農業なんか継ぐものか」と粋がってフリーターとして法律系の資格取得をめざしておりました。
その背景には私の代で農業という職業を閉ざすからこそ、親が納得できるだけの職業につきたいという想いもあったからです。
内心、いずれ東京から帰り、いざとなったら親の農業をサポートできるよう地元で開業できるよう法律関係で独立開業できる資格取得を目指しました。
でも私本番に弱いタイプなんですよね。
あと一歩で受かりそうで受からない。。。
それに固執し就活もせず、ついにはフリーターやってましたわ。汗
そんな中、母から一本の電話がありました。
「もう赤字続きで農業辞める。そっち(東京)で就職しろ」
今まで、「青森に戻ってくると約束したから東京に行かせた」「いやそんな約束はしてない」と言い争うほどに青森へのUターンを主張していた母から突然の電話がありました。
また、その年、農地法の大改正がありました。
資格の試験でも法改正の分野は狙われやすく、さらっと勉強していた時です。
農地法大改正の一番のポイントは「株式会社の農業分野への参入の実現」というものでした。
私はその時ふと思いました。
「この資本主義経済の日本において、農業分野はいかに政策の保護下にあり、時代にとり残されているのか」と。
この保護主義の農業分野において、いかようにもつけ入る隙がある。
それを確信した私は
「じゃぁ、俺戻って農業手伝いながら法律の勉強するわ」
両親も
「じゃぁもう一年だけ頑張ってみるか」
と2008年私は就農しました。
それと同時にこの年に「毒入り餃子事件」が明るみになり、外国依存の食産業に消費者の懐疑的な思想が広がり、にんにくの値も高騰。
この年以降、次第ににんにく農家としてもどん底から這い上がりつつありました。
食を支える国内農業への関心の高まりを見せ始めた時期でした。
結局法律の資格試験受かりませんでした!!!笑
2008年に就農した私はまず経営の問題点の洗い出しから始めました。
まず帳簿を見て愕然としたのが、直近の農業所得の低さ。
年金や国保税等払ったら一瞬で吹き飛んでしまう金額でした。
問題点の洗い出しの結果、スペースの問題上抽象的な表現になりますが、
・中間手数料の問題→直販へ切り替え
・生産性の問題→不採算部分のカット
・価値&ニーズの錯誤→合理的な手段と付加価値創出の模索
常に問題提起と改善策の提案、今でもそうです。
この点を念頭に就農後もできるかぎり施策を打ち込んでまいりました。
直販は簡単なことではなく、色々と苦労はしましたが、まずはネット販売のためサイト構築に励みました。
サイト構成の知識はないため、色んな方にご迷惑をかけながらも2008年秋にはネット販売を開始。
誠実さだけは伝えようと努力した結果、あんな素人の制作したサイトながらも、初年度から取引先も少しずつ増えて行きました。
そうやってできたつながりを大切にし、現在では収穫前の5月には当農園で収穫されるにんにくの行き先がほとんど決まっている状況にまでもってくることができました。
ただ、ここでは直販することが正解だということを伝えたいわけではありません。
人と人とのつながりが大切だということを伝えたいのです。
今の私は、様々な方々が介在し、支えられ今に至ります。
本当に感謝しております。
また、
いいものを作っているという自負はありますが、いいものを作るのは当たり前で「それをどう伝えるか、またどう喜んでもらえるか」
そういうところをどう表現していくかが大事だなと思っております。
2008年、就農して以降がむしゃらに動き回りました。
今となっては仲間やパートナーと呼べる方々も多くおりますが、そういった方々と信頼関係を構築できたことは大きな財産です。
就農当時いくつかの目標を掲げましたが一通り目標は達成しました。
そして、これからはまた違うステージに移行する時期だと思っております。
今後の具体的な目標
・どう消費者との心理的な距離感を縮めるか
・より多くの方にハッピーを届けたい
・そして経営を盤石に
今の私は多くの方々の善意によって形成されております。
様々な方より無償の善意を受け、私はその受けた善意は世の中に還元しなければならないと思っております。
上記であげた3つの目標に向かうことによって、それができるのではないかと考えております。
今後(2017年2月現在)、様々なプロジェクトが進行していきます。
にんにくの可能性はまだまだ広く、まだまだ深く掘り下げることが可能だと思っております。
そして今後は仕事観の合う隔地の農家、食に関わる人らとの連携を深めていくことにより、現代だからこそできる農業の可能性は広がります。
そういったものを模索しつつ、向上心は常に持ち続けていこうと思ってます!